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■第十号■ 加山又造と横山操
◇加山又造については、もっとも名前の知られた日本画家であると思われるので、ここでは経歴を割愛したいと思う。
◇しかし、横山操については、あまり知られていないと思うので、本当に簡単ではあるが、略歴を記したいと思う。
◇横山は、大正9(1920)年に新潟に生まれ、上京後、昭和15(1940)年の第12回青龍展で初入選を果たし、川端龍子に認められた。その後、徴兵され、敗戦後、シベリアにおいて5年もの長きに渡って捕虜・抑留生活を強いられたようであった。
◇復員後の彼は、まるで何かにとり憑かれたように精力的に、それこそ描きなぐるという表現がぴったり当てはまる創作活動を行ったのである。同世代の日本画家の中では兄貴分的な存在だったようで、特に、加山又造と平山郁男とは親交が深かったようである。昭和48(1973)年に脳卒中を患い、逝去した。53歳だった。
◇はっきり言ってしまうと、第二次大戦後の横山の絵画を、私は好きではない。
◇彼の画については、”ほとばしる黒、寂寥の赤”というキャッチコピーがあるようであるが、そこには、東京オリンピックの頃の、高度経済成長へまっしぐらに進む、わが国の姿があって、建設中の高速道路や、火花散る溶鉱炉が大画面に描かれたものばかりなのである。
◇旧ソ連の共産党の幹部がみれば随喜の泪を流しそうな、労働の賛歌を力強く謳ったものなのである。
画面には、戦後の左翼運動が吹き荒れた呼吸が漲っていて、時代背景もあるのだろうが、絵具を塗りたくった洋画のごときものなのである。
◇敗戦後、それまでの日本の文化は完全に否定され、彼の言を借りれば、因習と伝統の日本画は末期的な危機をむかえていたのであった。
◇あの喧噪の時代には、横山のような人間が、彼のような画風が必要だったのではないだろうか。
◇そんな横山が1960(昭和35)年を境にして、『瀟湘八景』や『越路十景』にみられる水墨画へと向かうのである。
特に『越路十景』は傑作であろう。
◇彼の水墨画は、本家の中国の模倣ではなく、中世から連綿と続く明兆、雪舟、古狩野や等伯でもない、また大観のそれとも違う、横山独自の世界が構築されているのである。
◇そこには”気韻・風雅”という言葉は到底当てはまらず、また”枯れた”という従来のイメージとは異なる、侘びしい風景を描いているにもかかわらず、裡には旺盛な力を秘めたものを創造しているのである。
◇六月のおわり、私は竹橋にある国立近代美術館に行った。
横山操の回顧展があったからである。
◇面白いのは、水墨画へ向かう前の横山の作品に一点だけ、『紅白梅図』という六曲一双の、江戸琳派風の小粋な屏風絵があるのである。
◇私はそれを観て、横山は本当は、琳派に行きたかったのではないか、と漠然と思ったのである。
勿論、それはいつもの私の夢想癖から生まれたものである。
しかし、もし、そのまま横山が琳派へ突き進んでいれば、宗達、光琳や抱一とは違う、増してや加山とは、まったく異なる世界を図上で表現していたのではないか、とつい想像してしまうのである。
◇横山と加山の交流は、多摩美大の講師として、加山が彼を招いた頃から深まったようである。
◇先日、放送されたNHK教育『新日曜美術館』に加山が出演していた折り、横山のことを”兄”のような存在だったと言っていた。
横山が、実ではないが兄弟と張り合うようなことをするだろうか。兄と慕われた彼の矜持が、それを許さないのではないだろうか。
◇横山が晩節、水墨画へ向かったのは、加山の存在を抜きにしては語れないのではないか。
◇横山が存命であれば、”そんなことはない。おれはただ、琳派より水墨画を描きたかっただけだ”と反論するかもしれない。
しかしながら、彼の身近には加山という、生まれながらにして琳派の申し子のような、偉才がいたのである。
◇日本画家・横山操と加山又造という存在は、明治の横山大観と菱田春草のそれに似ているものなのかも知れない。(どちらが大観で、どちらが春草であるとは判然とはしないのであるが……)
◇奇縁というか、奇しくもと言うべきか、近年の加山が、横山の死後、天龍寺・法堂の大天井絵(雲龍図)にみられるように、水墨画へ傾倒して行くのである。
◇彼らにとっての最終到達点は、やはり水墨画なのだろうか。(敬称略)
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