■第十三号■ 聖徳太子と観音菩薩

◇夏のおわり、私は上野にある国立博物館に行った。
法隆寺宝物館がようやく完成し、特別展覧会があったからである。

◇その日は展覧会の最終日で、日曜日ということもあって、会場には池の鯉のように人、人、人で溢れかえっていた。

◇上京したばかりの頃の私は、なぜ、東京に、奈良の法隆寺の寺宝物を展示する専用の美術館があるのかを、ずっと不思議に思っていた。

◇結局それは、明治維新政府の”神仏分離令”によって、”廃仏毀釈”が行われ、法隆寺側が寺宝物の散逸を防ぐために、皇室に寄付したのが始まりだという。

◇展示室に入って、まず最初に私が驚いたのは、止利派の作といわれる観音菩薩が多いことであった。
数えてみると、二十一体もあり、なかには朝鮮で造られたものもあるということだった。

◇解説書によると、それらの観音像は七世紀ごろに製作され、大和朝廷に仕えていた豪族らが所持し、崇拝していたという。

◇止利派というのは、仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)を長とする、仏像製作集団のことで、聖徳太子の時代に活躍したといわれている。
止利は、わが国仏工の祖といわれている。
飛鳥寺の丈六の釈迦像(飛鳥大仏)や、法隆寺金堂の釈迦三尊像があまりにも有名である。

◇それらの観音像は飛鳥仏らしく、お顔が大きくて、目が細く、こう言っては何だがいくぶん寸胴で、足が大きく、衣のひだもお躰とのバランスを考えれば分厚くて重そうなのである。

◇天平時代の洗練された仏像の造形と比較すれば、それらは原初仏教(原始ではない)の趣を持ち、土俗的で、野趣的でさえあるのである。
まさに純朴そのものであり、その口元には古拙の微笑=アルカイック・スマイル=をたたえておられるのであった。

◇観る側が思わず微笑んでしまうような、ユーモラスで、温かみがあり、ほのぼのとした心持ちにさせてくれる仏像なのである。

◇しかし、それで美しくないのかといえば、決してそうではなく、おだやかなお顔立ちのなかにも、凛とした”気”を躰全体から発しておられるのである。

◇話はちょっとそれるのであるが、奈良は本当に面白い所だと思う。
斑鳩に行けば、上記のような飛鳥仏に出逢えるし、西の京では白鳳時代の薬師如来や聖観音に、奈良の街中では、天平期の限りなく人間の形に近い不空羂索観音や阿修羅像を観ることができる。
歴代順に仏教芸術を堪能することが可能だし、その時代時代の空気や雰囲気を体感できるのである。

◇飛鳥時代の人々はなぜ、”如来”ではなく、”菩薩”をこれほど崇拝したのだろうか。
仏教に関してはまだまだ勉強中の私ではあるが、菩薩というのはいまだ修行中の”人間”であって、”仏”ではないではないか。
観音信仰がアジアにおいて、これほど発達したのは日本だけだという。

◇それは、やはり聖徳太子が『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』、『維摩経義疏(ゆいまぎょうぎしょ)』とともに『法華義疏(ほつけぎしょ)』をお書きになったことが大きいと思われる。
義疏というのは、経典・経論の意義・内容を解説した書のことをいう。

◇つまり『法華経(義疏)』のなかに、『観世音品(かんぜおんほん)第二十四』というのがあり、それが発展して独立し、現代にまで続く観音信仰になったのである。

◇観音信仰が根強く支持されるのは、現世利益の功徳が述べられているからであって、観音菩薩はすみやかな衆生の救済のために三十三身に姿を変えて現れるからであるという。

◇つい最近の発見によって、法隆寺・聖霊院の『太子像』(秘仏・国宝)の頸から胸部にかけて、胎内仏として、”救世観音像(白鳳期)”が出てきたということだった。

◇救世観音は乱世に現れて、衆生を救うという。

◇私はテレビ画面でしか、その観音像を見たことはないのだが、やはりその像も、飛鳥時代の作風を色濃く残したものであった。

◇それは、太子が救世観音の生まれ変わりであることの証左だ、という。
その時期から、”太子信仰”があったのだろうか。
それとも、彼ら豪族は、太子の御影に救世観音を重ね合わせて、祈願していたのだろうか。

◇それは、やはり存命中から、まさしく菩薩自身であって、その死後も救世観音の再生された姿として慕われた、太子の面影を偲んでの行為だったのではなかっただろうか。

◇聖徳太子の存在なくして、わが国の仏教の進展はなかったのである。

◇親鸞は言ったという。
「太子こそ、和国の教主である」と。
間違いなく、その通りだと私は思う。

◇聖徳太子のことを褒めすぎだろうか?
私は決して、そうは思わないのである。

◇東京国立博物館・法隆寺宝物館
http://www.tnm.go.jp/doc/Guide/Stat/k04.html
本文に記した止利派の二十一体の観音菩薩像(重文)が常設されています。


□J*美リポート□

○今週は年末ということもあり、色々な事柄に忙殺されて、スケジュールの都合がつかず、展覧会・舞台などには行けませんでした。
ですから、リポートはありません。すみません。

○という訳で、今週は一年の締めくくりということで、以前から私が漠然と思っていることを、つれづれに書こうと思います。

○1.忠臣蔵について
私は、NHKの大河ドラマ『元禄綾乱』を熱心に視聴していた訳ではないのですが、最終回の五回前ぐらいから、かじり付くように観ていました。

○なぜ、あのドラマは日本人の琴線に深く響くのでしょうか?
ただ単純に、日本人の心根にある”判官贔屓”だけでは片づけられないように思えます。
……しかし、よく分からないなあ。

○ただ番組を観ていて、あの事件が起こって舞台化されるまでは、歌舞伎は、やはり同じ仇討ちものである『曾我物語』ばかり、毎新春に演っていたのでしょうね、きっと。(能の方は、事件に関係なく宮増の”曾我もの”ばかりだったのでしょう)

○近年のNHKの大河ドラマは、江戸時代のものばかりですね。
『太平記』、『炎立つ』や『花の乱』とか、中世や中古のドラマも楽しかったのですが……。
出来れば、今回のテーマであった『聖徳太子』などの古代ものをやってくれれば嬉しいですね。
皇族のものはまずいんでしょうか?面白いドラマになると思うのですが……。
それと、『足利義満』なんかドラマ化すれば、きっと興味深いものになると確信するのですけれども、たぶんに視聴率が稼げないからでしょう……。

○2.能楽について
なぜ、能・狂言の公演というのは、一日一番なのでしょうか?
世阿弥の著書を読みますと、地方巡業に行って、三日間連続興行をしたというようなことが書いてあります。

○いつから、現在のような興行形態になったのでしょうか。
何か意味があるのでしょうか。

○せめて、同出演者・同囃子方で最低三日間の興行というのは不可能なのでしょうか。
歌舞伎のように半月ほど、ぶっ通しで同じ演目をやれとは言いませんけれども、せめて三日〜五日ぐらいの猶予が欲しいですね。

○というのは、能楽好きが集まって、演目の話題で盛り上がった場合、感動を共有できないというのは致命的なことだと思います。

○巷間では何十年ぶりかの、能楽ブームだと言われていますけれども、能楽関係者も再考の余地があるのではないでしょうか。

○能も、”ドラマ”のひとつなのですから。

○取り留めもなく、書いてしまいました。(譽)

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