|
■第十五号■ 余白の気韻・安田靫彦
◇日本画家・安田靫彦の作品に、源平合戦のさなか源頼朝・義経兄弟が黄瀬川で対面する『黄瀬川陣』という傑作がある。
◇それは、陣屋で毅然としている頼朝に、今まさに義経がはせ参じたという場面で、六曲一双の屏風には、その二人だけしか描かれてはいないのである。
◇画面には、静謐ともいえる無言劇が展開されているのだが、次の瞬間には、これから始まるであろう戦乱を、十二分に想像させるのである。別の言い方をすれば、嵐の前の静けさといったところか。
◇靫彦の高雅な描線と、大胆で簡潔な構図。色彩はあくまで優美であり、歴史画において史実を忠実に再現しようとした色使い、特に古渡鳳凰朱と思われる鮮やかな朱色をアクセントに用いて=静的な人物描写であるにもかかわらず=画面の外側での動的な予感を感じさせるのである。
◇こういっては誤解を招くかもしれないが、余白にこそ、彼の気韻があるのではないか。つまり、小説家が原稿用紙の行間を読んで欲しいと願うのと同じように、手つかずの余白の部分にこそ、靫彦の絵画の真髄があって、作者自身の意図・計算されたものがあると思われる。
◇それが観る者を静かに画面に惹きつけ、彼の創造した天壌無窮へ誘う(いざなう)のである。
◇きれいに描きすぎるというきらいがあって、迫力不足の感は否めないけれども、画面に漂う気品や威厳は靫彦ならではのものであって、一遍の詩=一首の万葉歌のごとく=秀逸な作品と言っても過言ではない。
◇そして歌が連綿と謳いつがれて、万葉集になったように、彼の歴史画も数々の名品を遺して、集大成をなしたのである。
◇すべてとは言えないが、靫彦の残した晩年の歴史画は『夢殿』の聖徳太子、『物部大連』の物部守屋、『黄瀬川陣』の源義経、『役優婆塞』の役小角など悲劇的な運命を辿る人物を題材にしたものが多い。
◇しかしながら、彼らは皆、それぞれの道を極めた巨人ばかりであって、そんな彼らを鎮魂する意味で靫彦は描いたのだろうか。
◇靫彦は、明治17(1884)年、東京・日本橋の料亭の長男として生まれた。幼い頃から病弱だったようで、彼が画家となって”新古典主義”と形容される歴史を題材にした絵画が多いのも、家に引きこもって読書に耽っていたのが、その主な理由であろう。想像力が豊かで、空想にふける少年だったのではなかろうか。
◇靫彦は十四歳のとき、その当時日本画壇の主流をなしていた横山大観、菱田春草、橋本雅邦、狩野芳崖というそうそうたる顔ぶれがいたのに、地味な存在で歴史画を得意にしていた小堀鞆音に師事している。
それが、その後の彼の進路を決定づけたといえよう。
◇躰が弱かった靫彦ではあったが、奈良や京都へは、絵画の勉強のためにたびたび訪れていたようである。
その時代、”留学”という言葉が使われていることからも分かるように、交通事情が現在と違ってかなり悪く、往路だけで一日半もかかったということである。
◇同じ国内であっても、心持ちは海外へ行くようなものだったのではなかろうか。靫彦にとっては”異国”である奈良や京都は、想像をかき立てるのには十分に魅力的な場所だったようである。
◇それゆえ、『御産の祈』、『飛鳥の春の額田王』や『大和のヒミコ女王』などの名作を残せたのであろう。
◇そして、昭和14(1939)年、法隆寺金堂壁画保存調査委員となり、壁画模写を始めるのである。
戦後、法隆寺・金堂が火災によって焼失するが、昭和42(1967)年、再現模写事業を、前田青邨と共に監修したのであった。
◇近代日本画の父・岡倉天心は言ったという。「世人は歴史を目して過去の事績を編集せる記録、即ち死物とする。然し、是は大なる誤謬である。歴史というものは吾人の体中になく、活動しつつあるものである。要するに古人の泣いた所、笑った所は、即ち今、人が泣き或いは笑う源をなしている」と。
◇靫彦は、昭和53(1978)年、神奈川県大磯の自宅で、心不全によって逝去した。享年94歳だった。
◇靫彦の歴史画は、どんなに時代が変遷して、色褪せてみえる時期があったとしても、また再考・再認識される時がくると思うのである。
 |
|