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■第二十一号■ 北尾政演(まさのぶ)、あるいは山東京伝 ◇五、六年前だったと思うが、巷間で江戸ブームが起こり、私もそれに乗せられるように、東京の下町を何度も徘徊した。北尾政演(山東京伝)がかつて往来したであろう、深川、浅草、柳橋や両国界隈で遊んだのだった。 ◇浅草寺の雑踏を歩き、大川(隅田川)の匂いを嗅ぎ、深川めしを食し、いまだ残る下町情緒をふたたび堪能したのだった。 ◇気分はすっかり江戸っ子だった。 ◇本誌の主旨から少しはずれるのであるが、篠田正浩監督の映画『写楽』(出演:フランキー堺、真田広幸ほか)は、なぜ、カンヌ映画祭でパルムドール賞を獲れなかったのだろうか。私は劇場で観たのであるが、よく出来た映画だと思った。その当時の絢爛とした江戸・新吉原の風情や、そこに生きる人々の風俗がうまく再現されていたし、それに何よりも面白かったのである。 ◇記憶が定かではないのであるが、その映画で、山東京伝は、河原崎長一郎が演じていたのではなかっただろうか。 ◇テレビの映画劇場でも放送していたが、大きなスクリーンで観た方がはるかに美しかった。 ◇一般に浮世絵師・北尾政演より、戯作者・山東京伝という名前の方が知名度は高いと思われる。 ◇その時代、あり余る才能を遺憾なく発揮したベストセラー作家は、浮世絵においても優れた名作を遺したのであった。 ◇特に、あの蔦屋重三郎が営む書肆耕書堂から出版された『吉原傾城・新美人合自筆鏡』はすばらしい連作物であろう。それは、新吉原遊郭の代表的な名妓(最上級の遊女)をモデルとし、好みの豪奢な衣裳をそれぞれに着させ、彼女たちの自作の歌を掲載させるという画期的な絵本だったのである。 ◇私はその中でもとりわけ、『花扇と瀧川』が好きである。 五明楼扇屋の花扇と瀧川という二人の娼妓が、豪華な衣裳を着、新造・禿(かむろ)をひき連れて仲之町を歩いている(たぶん花魁道中だと思われる)という図なのである。 ◇瀧川の方は背筋を伸ばして堂々としているのだが、花扇の表情はなぜか物憂げで、俯向き加減に歩いているのである。 ◇私はこれまで、そんなアンニュイな面持ちの遊女の絵を見たことがない。 ◇それは、政演の計算によるものではなかっただろうか。そういう風に描くことによって、より花扇の美しさが際立つと考えたのではなかったろうか。 ◇山東京伝の戯作『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』に登場する浮名という遊女は、この花扇がモデルだと言われている。 ◇花扇は、鶯色に鶴亀の大きな文様の打掛けを着、赤紅の古典柄の帯を前に垂らしているのである。一方、瀧川の方は黒地に雲間を鶴が飛ぶという図柄をあしらった打掛けに、やはり紅緋色の古典柄の前帯をしているのである。 後世にみられるような高下駄を、ふたりはまだ履いてはいない。 ◇新造や禿もやはり、豪華な着物をまとっているのは言うまでもない。 ◇浮世絵は、現代のテレビと同様に、その時代の世相や風俗をうつす鏡だったのである。 ◇政演の浮世絵を誤解を承知でいえば、師の北尾重政のような硬質な線ではなく、鳥居清長のような流麗な線でも、喜多川歌麿のような婀娜(あだ)っぽいものでもないのである。そうかといって、描かれた妓女たちに全然色気がないのかといえば、決してそうではなく、清廉な色香というものが画面には漂っているのである。 ◇政演が活躍した時代背景を簡単に述べると、あの悪名高い田沼意次が老中となり、江戸の町はバブル景気に湧いていたのであった。 十数年前にあったあのバブルと異なるのは、その時代は”土地”ではなく、”米”だったようである。 ◇そんなインフレ景気は、大町人と呼ばれる富裕な町人を生み、それは蔵前の米穀金融商・札差であり、日本橋の魚河岸の問屋商人たちであったようである。彼らは紀文のごとく、日々湯水のごとく派手に金を使い、消費をリードしていたようであった。 ◇その当時、歌舞伎小屋の客席の、右半分を札差が、左半分を魚河岸が買い占めたというものすごい逸話が残っているのである。 ◇助六の演者に魚河岸から、紫の鉢巻や杏葉牡丹(ぎようぼたん)の色ざしが贈られるようになったのもその時代かららしい。 ◇経済活動という意味において、江戸の町はようやく上方からの呪縛を解かれ、一人歩きできるようになったようである。 ◇北尾政演(山東京伝)こそ、そんな時代と江戸の町が産み出した浮世絵師であり、戯作者はなかっただろうか。 ◇今さらという感は否めないのではあるが、私は政演が”東洲斎写楽”だったのではないかという思いが拭い切れないでいる。 というのは、妻女・お菊が病死して、政演が喪に服していたということであるが、どうも不自然なのである。 ◇商売にあざとい蔦屋重三郎が、売れっ子作家であり浮世絵師だった政演を放っておくようなことをするだろうか。写楽が活躍する時期と、政演が服喪している期間がちょうど符合するのである。 ◇寛政七(1795)年には、京伝(政演)は一編の戯作も刊行していないのは、どういう訳であろうか。 ◇写楽は役者絵を多く描いたが、政演は以前から、歌舞伎作家の初代桜田治助と親交が深く、楽屋へも頻繁に出入りしていたのではなかっただろうか。 ◇果たして、”写楽”は誰だったのだろう。 ◇身はかろく 持つこそよけれ 軽業の 綱の上なる 人の世わたり(身軽織輔”みがるのおりすけ”作=京伝の狂名=) ◇北尾政演が”山東京伝”ではなく、浮世絵師であり続けたならば、春信、清長、歌麿クラスの域にまで到達していたのではないか、と私は確信するのである。 □J*美リポート□ ◇今週は興味深い書籍がありましたので、それを紹介しようと思います。 昨年の十一月に刊行されたようです。 それは、日高堯子著『黒髪考、そして女歌のために』です。 ◇私は、その著者のことを詳しく知らないのですが、歌人で、数冊の歌集を出しておられるようです。 ◇その書籍を、帯につけられたコピー文を借りていいますと、万葉の黒髪、晶子のみだれ髪、かの子の断髪、と古の昔から”髪”には、女性たちの心の何が映し出されてきたのか?を読み解いてゆくというエッセイ集です。 ◇ありつつも君をば待たむ打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに 居明かして君をば待たむぬばたまのわが黒髪に霜はふるとも (『万葉集』巻二・八七、同・八九) ◇著者は、髪が、女の肉体や情念の喩と同じような身体記号であり、その源流を求めて、表現史を辿ったと述べておられます。 ◇私は、女性の黒髪が、これほどシンボリックなものであるとは全然思っていませんでした。 それに、これまでの女性運動にはまったく疎い人間だったので、その本を読んで知ったという次第でありました。 ◇一部抜粋しますと、明治5年に、違式珪違(いしきかいい)条例という現在の軽犯罪法にあたるものが制定されたそうです。 それは、どういうものかと言いますと、「婦人にていわれなく断髪する者」に罰金を課すという一条なんです。 ◇つまり、夫と死別した者と極老のため結髪できない者以外は、髪を切ってはいけないという法律なんです。 男の方は、開化によってちょん髷を落とすことを強制されたようですが、それに呼応するかのように、その当時の女たちの中には断髪する者が続出したようで、それを見兼ねた維新政府が、そんな法律を作ったようです。 時の政府は、活動的な女性より、”良妻賢母”型の女性像を求めていたようです。 ◇この一文でもわかると思うのですが、女性の黒髪って、本当にシンボライズされている(→された?)ものなのだな、とつくづく思いました。 ◇しかし、明治18年になると全国各地で、「婦人束髪会」といって、髪の自由をうながす大運動が起こったようです。それがその後、岡本かの子にみられるような、モガ・モボブームへと連鎖して行くようです。 ◇さびしさにうそりうそりと増える髪肩に垂らして森のごとをり 日高堯子 ◇女性の髪にまつわる歌と、それにともなう歴史的考察に興味のある方はぜひ、オススメです。(譽) ◇『黒髪考、そして女歌のために』 日高堯子著 発行・北冬舎 発売・王国社 ¥1,800−(税別) |
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