■第二十二号■ 恋の行方・菟原処女(うないおとめ)

◇神戸市東灘区御影塚町に、『処女塚(おとめづか)』という墓があるそうである。それは、二人の男に求婚されて、どちらも決めることができず、最後には死を選んだ菟原処女の塚だという。

◇そして、男たちも処女の後を追うように、生田川に身を投げて死んだという。

◇菟原処女は、芦屋あたりに住む美しい娘だったようで、彼女に言い寄る男たちが二人いたそうである。一人は同郷の菟原壮士(うないおとこ)であり、もう一人は血沼壮士(ちぬまおとこ)だという。血沼というのは、現在の大阪府堺市から岸和田市あたりの古名なのだそうである。(”茅渟”とも表記するようである。)

◇菟原壮士も血沼壮士も、家柄も同じくらいであり、処女への愛情の示し方も、求婚の言葉も、贈り物も、どちらも似通っていて、処女は決めかねて相当悩んだようであった。

◇結局、どちらとも決断できず、悩み疲れた彼女は生田川に身を投げて死んだという。

◇処女塚から1.5キロほど東の東灘区住吉宮町に、処女を愛した一人である血沼壮士の、また、西に2キロほどの灘区都通りに、菟原壮士の塚があるそうである。それらは、『求女塚(もとめづか)』と呼ばれているそうである。

◇江戸時代までは、それらは処女塚を真ん中にして、仲良く並んで建立されていたそうであるが、いつの間にか、現在のように分離されてしまったようである。

◇私は雑誌のグラビアでしか、それらの塚を見たことがないのであるが、ごく普通のどこにでもある石碑だと思った。

◇ただ、この章で菟原処女を題材にしようと思ったのは、三人の万葉歌人と、物語作者と能作者が妻争い伝承に心動かされて、それぞれの作品を遺したからであった。

◇芦屋の 菟原処女の 奥津城(おくつき)を 行き来と見れば 哭(ね)のみし泣かゆ

◇『万葉集』(巻九・1810)に載せられた高橋虫麻呂の歌である。
現代語訳すると、芦屋の菟原処女の墓に行くたびに眺め、帰るにつけては見るのだが、何度見ても、泣くばかりで、泣かずにはいられない。
その他にも、田辺福麻呂(さきまろ)、大伴家持が、処女塚についての長短歌を遺している。

◇また、平安時代に創作された『大和物語』にみえる”をとめ塚”の物語には、上述したように処女を死に追いやり、男たちも果てるというものである。

◇すみわびぬ わが身なげてむ 津の国の 生田の川は 名のみなりけり
(生きて行くのが辛い。今はこの身を投げよう。生田の川は名ばかりで、ここで私が死んで行く川)
という歌を遺して、処女は果てるのである。

◇ただ、第二段落には、その物語の後日談が書かれていて、宇多天皇皇后温子と彼女に仕える女房らが、菟原処女と男たちに成り変わって歌をつくるというものである。

◇第三段落目は、がらっと雰囲気が変わって、ある旅人が処女塚の近くに一夜の宿をとるのであるが、夜中に見知らぬ男が訪ねてきて、数年来の仇を討ちたいので太刀を貸して欲しいと言う。旅人は気味悪がったが、渋々その男に太刀を貸してやるのである。翌朝、旅人が目覚めて、処女塚に行ってみると、そこには流血の跡があり、太刀にも血がついていたという。

◇第二段落はまさに王朝風であり、第三段落目は『今昔物語』にあるような怪奇譚の構成なのである。

◇能楽師の観阿弥は、その物語と万葉集を題材として、謡曲『求塚(もとめづか)』を書いた。もっぱら能の方は、処女が死んでからのものであって、おのれの不断さによって地獄に堕ち、霊となって彷徨うというものである。

◇自殺してからも菟原処女が地獄の苦しみを味わうというのは、ちょっと可哀相な気もするのであるが、最後には旅の僧侶の加持祈祷によって、成仏するのである。

◇『大和物語』の”をとめ塚”の章の冒頭には、「むかし、津の国にすむ女ありけり。それをよばふ男ふたりなむありける。……(後略)」とある。

◇その”よばふ”という言葉は、”夜這い”と同義語だと思われる。

◇古語辞典によれば、【呼ばふ・婚ふ】は本来の”呼ぶ”ことの他に、”恋をしかける”、”言い寄る”という意味があるのである。また、夜、恋人の元へ忍んで行くというのも含まれているのである。

◇つまり菟原処女は、ふたりの男どちらとも肉体関係があったと思われる。

◇現代の性のモラルからすれば、処女は何と節操のない女だと思われるかもしれないのだが、上古においては、それはごく普通のことだったようである。

◇ここで誤解しないでもらいたいのであるが、私は何もジェンダー・ギャップや女性問題を取り上げようとしているのではないし、貞操を守ることこそが女性の努めだと言おうとしているのでもない。

◇モラルは時代とともに変遷するのである。

◇しかし、なぜ、”おとめ”のことを”処女”と書くのだろう。

◇話を元に戻そう。

◇万葉集には、菟原処女の他に、妻問いで自害した女が三人もいる。
畝傍山のさくら子、耳成山のかずら子、真間の手児奈(てこな)である。
これは一体どういうことなのか。

◇彼女らの死が菟原処女と異なるのは、言い寄った男たちは生き残ったということである。
なぜ、それら四名のうら若き乙女が死を選ばなければならなかったのか。どちらかに決めて、結婚すれば良かったのにと思う。
別の方法で、その場から逃れることが出来なかったのだろうか。

◇それは現代的なの考え方であって、いまの倫理観では説明できないのではないか。
そんな行為が、古代においては美徳とされたのだろうか。

◇木梨軽太子(きなしのかるのたいし)と軽大郎女(かるのおおいらつめ・衣通姫)の兄妹心中や、近松の浄瑠璃の情死というのであれば、何となく理解できるのであるが、菟原処女らの行為は、私の想像の範疇をはるかに超えているのである。

◇その理由を知りたくて、万葉関係の書籍を読み漁ったのだが、どれも私を納得させてくれるものはなかった。

◇菟原処女らの死は、古墳時代のわが国独特なものではなかったろうか。そうでなければ、仏教の倫理観や儒教の道徳観では到底説明できない。それに、それらの思想はまだその時代には、日本にはなかったのである。

◇きちんとした回答が出ないまま、この章が終わってしまうのであるが、ひとつだけ言えることは、古代から、日本人の美意識の底流にある”死の美学”というものが根づいていたということではなかろうか。(無論、それは今回の場合は変形したものではあるのだが……。)

◇また、別の機会に乙女たちの死と、歌人・高橋虫麻呂のことを書いてみたいと考える。

◇芦屋の 菟原処女の 奥津城を 行き来と見れば 哭のみし泣かゆ

◇いつか、処女塚を訪ねてみようと思う。


□J*美リポート□

◇また今週も書評です。
現在、開催中の展覧会や舞台で観たいと思うものがないので、このようになっ
た次第であります。
その書籍は、ドナルド・キーン著『日本語の美』(中公文庫版)です。

◇その著者の経歴については、あまりに高名ですので、ここでは割愛させて頂きたいと思います。

◇その本の中で面白かったのは、著者がニューヨークで三島由紀夫と逢って、”ニューヨークの生活を楽しんでいますか?”と訊いたところ、三島は”歌舞伎以外、ニューヨークの生活に欠けているものは何もない”と答えたそうです。

◇私は、三島がそれほど歌舞伎好きだとは知りませんでした。確かに『椿説弓張月』の脚色はしていますが、私はてっきり能楽ファンだと決めつけていましたから……。

◇それと、安部公房とピアニストのグレン・グールドが対談した折り、著者が通訳されたそうですが、グールドはたいへんな親日家であり、漱石の小説と安部の原作の映画『砂の女』を何度も観たことがあったそうです。

◇そして安部は、グールドのことを”彼はたまたまピアノを専門にしているが、本物の天才であるから、何をやっても同じ成功を得られただろう”と語ったそうです。

◇凡人の私からすれば、安部とグールドというふたりの天才(奇才?)のエピソードはとても興味深いものでした。

◇多くの米国人がキーン氏のように、日本の文化を深く理解してくれたならば、色々な所で起こる日米摩擦も少しは和らぐと思うのですが……。

◇キーン氏のウィットにとんだエッセイと、日本語の美に興味のある方はぜひ、オススメです。(譽)

◇『日本語の美』 ドナルド・キーン著
中央公論社刊 ¥680−(税別)

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