■第三号■ 天龍寺の曹源池

◇奈良の話が二回続いたので、今回は京都のものにしょうと思う。

◇天龍寺は、足利尊氏・直義兄弟が後醍醐帝の御霊を慰めるために、夢窓国師疎石に請じて創建させたものだという。
国師の作と伝わる、大方丈の背後にある曹源池を中心とする池泉回遊式の庭園がそれである。

◇一部の美術評論家や作庭家によれば、あの庭は国師が彼の地に行く前からあって、平安時代には兼明親王が亀山山荘という別荘を営んでいたという。その後、後嵯峨天皇が離宮亀山殿を創り、持仏堂として浄金剛院を建立したようである。

◇また、曹源池の正面奥にある龍門瀑という枯滝があるが、鎌倉に建長寺を開いた蘭渓道隆が京都在住の折りにつくったという。

◇ちょっと待ってほしい。
これでは、夢窓国師が、あの庭園には何も手を加えていないように見えてしまう。
果たして、そうなんだろうか。

◇しかし、ここで考え巡らせていただきたいのは、国師以前の京の洛西には、禅宗寺院はまったくなかったということである。
その当時、武家的宗教であった禅は、洛東には寺院・塔頭が甍を競うように並んでいたが、嵐山の近辺はまったくの処女地だったということなのである。

◇やはり天龍寺=曹源池=は、国師が、龍門瀑や、石橋、岩島群、背景にある木々の緑蔭の風趣を壊すことなく、臨済禅の理念を込めて”新たに”創造したものなのではないか。

◇そこには、尊氏・直義兄弟、北畠親房、北朝の光巌上皇・光明天皇、南朝の後村上天皇、南北朝に関わる人々、そして国師、それぞれの思いが複雑に絡みあって、あの寺に、あの庭園に凝縮されているのである。

◇疎石の庭園ならば、天龍寺より西芳寺(苔寺)の方が良いという人も多いだろう。
もちろん、それに異を唱えるつもりはない。
純粋に禅の思想を顕現させたのは、西芳寺の方かも知れないからだ。

◇しかしながら、芸術は、人々のひとつの方向性を持つ思念がより結集された時、尚以て純度の高いものが創造されるのではないか。
ローマのヴァティカンのサン・ピエトロ寺院のごとく、後醍醐帝に関わったすべての人々の意思が、あの寺に集約されているのではないか。
禅の思想だけに留まらず、それをはるかに超えて結実したものが、天龍寺であり、曹源池なのである。

◇それを嵐山の地に実を結ばせたのは、言うまでもなく夢窓疎石その人なのである。


[天龍寺の紅葉]

この写真のご提供はKyoPicsさんです。

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