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■第五号■ 上野の歌麿
◇欧州に住む友人に聞くところによると、彼の地では、アニメーションとともに、日本の少女漫画は相当の人気を博しているようである。
◇それを知って漠然と感じたことは、あと百年とか、二百年ほど経つと、少女コミックも、いつの日かわが国の国宝や重要文化財になるかも知れないなあ、ということだった。
◇突然、何を言い出すのかと不思議がられる読者の方々も多いと思うが、私が言いたいのは、江戸時代の浮世絵も、現代の漫画と同じような扱いを受けていたと思われるからである。
◇というのは、周知のように日本の浮世絵は、海外で評価を得て、それから逆輸入されるような形で入ってきて、認識が変わったのではなかっただろうか。
◇江戸時代の人々は、今われわれが浮世絵を観賞する態度とはまったく違う、それこそ本屋やコンビニで漫画を買うように、歌麿や写楽や北斎を求めたのではなかっただろうか。
◇果たして、われわれの未来の子孫は、少女漫画に"美"を見出すのだろうか……。
◇青年期の私は、三島由紀夫の影響もあって、月岡芳年の浮世絵こそ、本当の本物だと思い込んでいた。
そうである。
あのデモーニッシュな=悪魔的な=血みどろの木版画である。
◇私は京都時代に、デパートや美術館で催される浮世絵展にたびたび出かけたことがあったが、保存状態が悪いものも多数展示されていて、そこに"美"を見出すことはできなかったのである。
それならば、美術全集などの書籍にある錦絵の方が断然美しいと思っていた。
◇喜多川歌麿にしても、春画の強烈なイメージが強すぎて、軽く見ていたように思う。
◇そんな私の固定観念ともいえる認識が一変するのは、五年ほど前に東京・上野の博物館で催された収蔵品の特別展覧会に行ってからであった。
◇その当時の私は、横山大観の『生々流転』と高山寺・鳥羽僧正覚猷の『鳥獣人物戯画』の実物を見たことがなかったので、この機会を逃せば、それらがまた、いつ見られるか分からないと思い、慌てて出かけた。
◇国宝・重文クラスの作品が勢揃いといった中、それは燦然と輝くように、そして極めて異彩を放っていたのである。
国宝・喜多川歌麿作『婦人相学十躰・浮気の相』。
◇背景を白きらら摺りの、行水上がりであろう女が、浴衣を肩にひっかけ、片方の乳房をあられもなくさらけ出し、いまだ濡れた躰を拭っているという構図の錦絵だった。
女の浮かべる妖艶な微笑は、題名からも察せられる通り、これから惚れた情夫の元へ逢いに行くことを意味するのであろうか。それとも、すでに隣の部屋で待つ男にむかって投げかけられたものであろうか。画面からは、匂い立つような女ざかりの色香があふれ、洗ったばかりの浴衣の香りさえ漂ってくる。
◇こういう書き方をすると、ひどく扇情的な作品のような印象を与えるかもしれないが、決してそうではなく、画面には品位さえあるのである。
保存状態も驚くほど良いもので、あたかも蔦屋重三郎が営む書肆『耕書堂』の店先に、今しも新作が並んだかのように展示してあった。
それは、紛れもない超一級の芸術作品であった。
◇歌麿の経歴については詳しく知らないが、まったくの町人の出であり、無名の町狩野の絵師に弟子入りしていたらしい。
錦絵の祖といわれる鈴木春信から数えて、たった十年ほどしか経過していないのに、江戸文化はこんな天才を生みだしたのである。
◇帰り道、上野の杜をとぼとぼ歩きながら、私の頭の中には、大観も鳥羽僧正もなく、ただただ歌麿の浮世絵がこびり付いて離れなかったのである。

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